日本神話の神様

ホツマツタヱ40文最終章 三重県亀山市にヤマトタケルのお墓がありました。

ホツマツタヱ最終章 40綾 熱田神 世を辞む文で描かれる能褒野は
ヤマトタケが足に負傷を負い亡くなった場所です。

能褒野神社
三重県亀山市田村町

 

 

能褒野王塚古墳

 

 

ホツマツタヱは天地開闢から東の国作りから大和の国へ 代々受け継がれる天皇の国作りの物語 命からがら守ったホツマツタヱが 滋賀県の高島にある日吉神社で見つかったという奇跡 勉強を重ねるごとに ヲシテ文字は縄文時代の神代文字ではなく タブーだった史実を来世に伝えるための暗号だったのでは?と思えてなりません。 私の動画は 見辛い点も、至らない点も多くありますが 最終章まで辿り着くことができました。 そして旅先で沢山の素敵な神社、景色に出会えました。 今、ホッと胸を撫で下ろしています。 これからは、今まで行けなかった気になる伝承地巡りや お祭りなど、マイペースながらアップしていきたいと思っています。 これからもどうぞ宜しくお願いいたします。

 

 

<訳>

纏向の日代の暦(景行天皇の御代)四十一年の春(アスズ828年)

ヤマトタケ君は木曽路から尾張(愛知県西部)へ行きタケトメの
孫の連(むらじ)の家に入りました。
愛知県名古屋市熱田区神宮、熱田神宮摂社 上知我麻 (カミチカマ) 神社

妻のミヤズ姫は都から、父(尾張国造の乎止与命(オトヨ))の家に送られ
ヤマトタケの帰りを待ち
帰ってきたヤマトタケ君はここで月を越しました。

ヤマトタケ君が仰いました。

「酒折の宮は昔のハラの宮で、永く続いています。
我が願いは、その宮を遷してミヤズ姫と楽しく暮らしたいです。」

連が申し上げました。
「臣たちよ。酒折の宮へ行き、絵を描いて写しなさい。」

ヤマトタケ君は微笑みました。

連たちは早速下り、酒折の宮を詳しく絵に写して報告しました。

その時、ヤマトタケは荒ぶる神が荒れていることを聞き
草薙の剣を置いて、軽装で伊吹山に向かいました。

和弊(にぎて)も持たず、行き過ぎる道にイブキの神が
大蛇(おろち)になって横たわっていました。

それが神とは知らずヤマトタケは大蛇に言いました。
「これ汝、吾はあれかた神の使いです。
天に助けを求めるまでもありません。」と
踏み越えて行くと、イブキの神がツララを降らして力を奪いました。
強いてなんとか凌ぎ歩み進み
わずかでも進んでいこうと心得ましたが燃えるように熱くなり
泉で冷ましました。
その泉は”さめが井”滋賀県米原町醒井と言われました。

足が痛むので、これ以上進めないと悟り、尾張に帰り
ミヤツ姫がいる家には寄らないで、伊勢の道の尾津で一本の松の木(おずのひとまつ)を見つけました。
※三重県桑名市多度町戸津、尾津 (オズ) 神社

これは昔、ホツマに降った時の御饗の時、
解き置いた剣を松の木の根に置き忘れてから
永い時が流れました。

故に歌を捧げます。

『置(お)忘れど ただに迎える 一つ松

哀れ一松(ひとまつ)人にせば 衣(きぬ)着せまじを 太刀はけまじを』

いささか慰められ、また歩き始めると、足が三重に曲がるほどの痛みだったので
ここは三重村と呼ばれるようになりました。

杖をつき坂も少し越えて、能褒野に着き痛みが重いので
トリコ五人を宇治に遣わし鹿島命の添人に任命しました。

キビタケヒコを都路へ上らせ預ける文にこう綴りました。

「ハナヒコ(ヤマトタケ)が申し上げます。
昔、父の詔を受けてホツマを討ち、天の恵と稜威により
荒ぶる神も服ろえば統治することができ
今ここに帰ってきましたが、私の命は沈む夕日のようです。
乞い願わくは、いつの日か御言を返したいのですが、
野に臥してしまい、誰と語れば良いのでしょうか?
惜しいですが、それが叶わないことも陽陰の法なのでしょう。」

 

 

文を書き留めてヤマトタケ君は仰いました。

「吾は東と西を平定し終えるとともに身を滅ぼす結果となってしまいました。
彼らを休ませる日もなく・・」とナツカハギを通じて花降り(銀貨)を皆分け給わせました。

歌を詠めば熱田の神となることで、湯浴びし、御衣を着替え、南に向かい
「我が世を辞むの歌はこれです。」と詠われました。

 

 

熱田宣り」
辞む時 東西の使人とと 父母に
仕えみてねど サコクシロ 神の八手より 道受けて
生まれ楽しむ還さにも
誘いちどる架け橋を 登り霞みの楽しみを
雲居に待つと 人に応えん

そう何度も謳いながら目を閉じ神となられました。

どうすることもできずただ祈り、歌は尾張へ届けられ

キビタケヒコが宮に上り、文を捧げると

スヘラギ(景行天皇)はどうすることも出来ず
何を食べても味がせず、嘆き悲しんで仰いました。

「昔、熊襲が背いた時、コウス(ヤマトタケ)がまだ揚巻(少年の髪型)の若さで
熊襲を平定しました。
いつもそばで助けてくれていましたが
ホツマを射たせる人がいないので、忍びない気もちでしたが
敵に向かわせました。
明け暮れる日々を過ごし帰りを待っていましたが
これは何の災いなのでしょうか。
縁もなく、天に召される誰と御業を治めるべきなのか。」と
諸臣に宣して神送りをしました。

その時、ヤマトタケはイ鳥になって飛び立ちました。
諸臣と陵の御棺を見ると冠と笏と御衣裳が残って虚しく空になっていました。

白い鳥を追うと
ヤマト国の琴弾原
(琴弾原白鳥陵(日本武尊陵) 奈良県御所市冨田)に

尾羽四枚置いて河内の古市にもまた尾羽四枚落としていました。

その場所に陵を作りましたが、白鳥もついに
雲の中に飛んでゆきました。
尾羽はまるで神の世の世掃き師のようでした。

これは東西もみな治めれば罷れる陽陰法です。

 

 

さて、このヤマトタケ君は日代の宮の皇の二人めの皇子でした。

母のイナヒ姫が十二月の望の日に、餅をついて餅花を作っていた時
双子を産み
兄はヲヲウス諱モチヒト
弟はコウス諱ハナヒコと名付けられました。

兄弟は一人前になり、熊襲がまた背いたのでコウスは一人で行き
乙女の姿になって敵の集まっている場所に入り、隠した剣で長ける(タケル)の胸を刺しました。
タケルは「しばし待て」と「汝は誰だ」と聞きました。

コウスは「今、皇である子のコウスです。」と言うと
タケルが「ヤマトでは、我より強いのは皇子だけだ。
よって御名を付けたい。」と
タケルの名と取り「ヤマトタケ」と名を捧げました。

皇子はその名を気に入り、”ヤマトタケ”と変えて討ち治めました。
これは天の誉れです。

ヤマトタケとイマスの孫のタンヤの娘のフタヂイリ姫(最初の后)との間に産まれた皇子は
イナヨリワケ諱タケヒコと
タリナカヒコ諱カシキネと
ヌノオシ姫とワカタケです。

キビタケヒコの娘アナトタケ姫はヤマトタケの内妻で
※岡山県倉敷市真備町妹、穴門山神社

タケミコとトキワケを産みました。

オシヤマの娘のオトタチバナ姫をスケ妻に、ワカタケヒコとイナリワケ、
アシカミカマミ、タケコハヒ、イキナカタワケ、ヰソメヒコ、イカヒコたちが産まれました。

そして尾張のオトヨの娘 ミヤズ姫は後の妻となり、タケダとサエキ二人産み
十四男一女に恵まれました。

先の妻は皆亡くなり、今はミヤズ姫一人だけになり、ヤマトタケは会おうと
ハラミより心細くも架け橋を凌ぎ、尾張の宮に上ると
ミヤズ姫は寝巻きのままで出迎えました。姫の裳裾に
月穢(つきおけ=月経)が染みているのを見て

 

ヤマトタケは短歌を謳いました。

『久方の 天の香具山 遠彼方より
さ渡り来る日 細たはや(華奢である例え)

上腕(かひな)を巻かん とはすれど
添寝んと(さねん)吾は 思えども 汝(な)が着ける衣(そ)の月経ちにける』

 

姫の返し歌

『高光る 天の日の御子 やすみせし 我王君の新玉の
年が来ふれば 上な上な(君待ち難に 我が着ける
おすひの裾に 月経たんなよ』

ヤマトタケが叔母のヤマト姫から賜った草薙の剣を、ミヤズ姫の宮に置いて
伊吹山に登り、帰りは伊勢路を労りながら行き、都を思って

「愛し清し 傍べの方ゆ(わきべのかたゆ) 雲出だち雲」

と御子や親族に遺し歌を送りました。

折り合いの十九歌で、館を出で立つとというのは
旅宿で出会う旅人が迷いを残さないようにするための諭し歌で、
これは深い心の導きなのです。

そして能褒野で神となる時にミヤズ姫に遺し歌を送られました。

 

『愛知多の 乙女が床に
我が置きし 伊勢の剣の 断ち別るやわ』

 

この和歌は

妹背の道は
連なって、断ち別れても 繋がった緒は切れはしないと
導きを伝える天の法です。

ミヤズ姫は悶え悲しみに耐え、生きているのがやっとでした。
姫の父はハラミの宮の絵を写して、都に上り、若宮のヤマトタケの願いのままを
申し上げ、愛知多に建つ新宮が完成し、遷座を願うと君が御言宣を降され
オオタタネコを斎主とし、差使人には尾張連の乎止与(おとよ) を。
御子たちには御幸の準備をさせて厳かに御幸されました。

琴弾原の御陵に落ちた白い羽四枚奈良県御所市富田、琴弾原白鳥陵
古市大阪府羽曳野市軽里、日本武尊白鳥陵の尾羽4枚を共に持って
能褒野の冠と芍と御衣裳を神霊笥に入れ
白神輿に載せられました。

日代の四十四年三月十一日、黄昏より神輿が出て能褒野を東へ向かいました。
諸司が松明を掲げ、二十人の先行者は榊を捧げ持ち
副代殿はサルタヒコの御顔(面?)を当て
代理人八人は八元幡(やもとはた)を持ちました。

大代殿は、冠を被り、役職を示す御衣を着用し
御柱を持って、臣六人が後に続きました。

キビタケヒコも同じ身なりで後を進みました。

オオタンヤワケも冠と御衣を着け、剣を左に提げ
臣十人が続きました。

神輿は天蓋で覆い
長の大臣 家侍人(いえはと)三十人
神尾末は、四丈八尺の絹二流れを
神輿から流し、その端を御子たちが持って歩きました。
これはアマテル神が遺した法に倣ったものです。

 

斎主の差使であるオオタタネコに臣十二人付き、その送りは夜中から六夜を経て、新ハラ宮に入り、神輿はオホマの殿に着きました。

ヤマトタケがこの世にいるかのように、ミヤズ姫は鑽火を起こして炊いた粥を平らな器に盛り、御前に供え申し上げられました。

 

「この神饌は、昔、伊吹山から帰られたら捧げるつもりで霊飯として炊いて帰りをお待ちしておりました。

でも君は寄らずに行かれました。悔やんでおりましたが
今、こうして来られました。

神となられた君、どうぞお召し上がりください。

君の命が在りつ代の、愛知多で待っていた君の日霊飯です。」

 

 

三度宣り、十六夜の月の灯に白い鳥が来てこれを食べ

現れる白雲に飛んでゆきました。

 

その時、ヤマトタケの声がして十九歌で応えました。

 

「ああ。この世にいたときに、ハラミ宮でいただきたかったです。
この姫が炊いた日霊飯を」

 

奇日霊を誠に畏れ拝み、オホマ殿より宮遷しをし
差使が和幣を奉りました。
愛知県名古屋市熱田区神宮、熱田神宮境内社の御田 (ミタ) 神社

この時、御使のオオタタネコと尾張連が
御言上げし、”新ハラのオホマの神”と贈り名を付けました。

このことから、神を送る時に供える神饌を ”世を辞む散り日霊飯”と呼ぶようになりました。

伊勢の添え人の蝦夷の五人は、アマテルカミを敬おうとしないので
ヤマト姫は、咎めて帝の元に上らせました。

その五人を三諸山に行かせると
程なく木を切って民の邪魔をしました。

君は仰いました。
「蝦夷たちは人の心無く、ここには置いておけません。
これからは分けて置きます。」と

播磨・安芸・阿波・伊予・讃岐・佐伯部と配置されました。

四十六年の春、七種の御饗から日が経ち、ワカタリヒコとタケウチは
内宮に参らなかったので、二人を召して、その理由を尋ねるとこう答えました。

 

「御饗の日は、遊び戯れ、大事なことを忘れてしまって
それを見張るために御垣を守っておりました。」

 

ヤマトヲシロワケ天君がそれを聞き「最もその通りですね。」と感心して
八月四日にワカタリヒコを世継ぎ皇子に決め、タケウチスクネを
棟の臣に任命しました。

ワカタリヒコとタケウチスクネは同い年です。

五十二年五月二十八日に、后のイナヒオイラツ姫が神となられました。
見送りの法は熱田法で行われました。

オホタンワケが神饌を炊き、ちり日霊飯として平で(平な器)に盛り
ヌノオシ姫に戴かせました。

添え人のタンヤワケが先駆者となり、次は姫、皇子

スケ侍、ウチ侍、オシモ侍、青侍ら三十人が続き
八元の八色幡(やいろはた)に神の言葉四十八文字を分けて染めて
吉備家の臣が持って並びました。

それはまるで雲に向かう架け橋のようで、霞がかった雲に千鳥が飛んで行きました。

吉備と播磨の兄弟のタケヒコが世箒(よはきし)を持って左右に並び
内宮の臣が神輿の前で御柱を持ち、皇子は最後尾(さいこうび)に並びました。

勅使人(おしかど)は遷し日の臣として神輿に乗り、
諸人はその様子を見送りました。

七月七日 ヤサカイリ姫は内つ宮(正后)になりました。

五十三年八月、ヤマトヲシロワケ天君が詔されました。

 

「振り顧り思い、悲しみが止む日はありません。
コウス(ヤマトタケ)が平定した国々を巡ろう」と
伊勢に御幸されました。

そして尾張の津島に行った時、連が迎い出ると
我が子に会えたかのごとく、共にオホマの宮に入り(熱田神宮)
自ら作った和幣を奉り申し上げられました。

「親子の縁を無くし別れ、会うことができなくなってしまいましたが
忘れられず、自らここに来ました。」と和幣を捧げ、
しばらくの間、追悼されました。

その夜の夢で、津島の森で白い鳥になって現われたヤマトタケが申し上げられました。

「アマテル神が、ソサノヲに
「国が欲しいなら、天法を為せば
国の神になれます。」と仰った教えの歌は

 

 

『あめがした やわしてめぐる ひつきこそ はれてあかるき たみのたらちね』
天が下 柔して廻る 日月こそ 晴れて明るき 民の親』

 

この意味が解けず、罪を重ねてしまったソサノヲに
イフキドヌシが手を引いて、神とされました。
天孫ニニキネはこの心を持ち、ホツマを心得て天君となられました。

それを羨ましく思い、ヤマトヲシロワケ天君の皇子として生まれ変わったのです。

御言を受けて東西の国を平定して帰り、今、神となり再びお目にかかることができ
良かったです。
親の恵を決して忘れません。」
と、折り数え歌を謳いました。

「我が光る ハラミつ錦 アツタ神 元つ縞衣(しまは)に おれるか ヒカワ」

輝かしいハラミ宮の錦を着用した熱田神は、元の縞衣に着替えて氷川神として
元の場所に帰ります。」

 

 

そう三度宣べ、以前の姿になって雲にお隠れになりました。

ヤマトヲシロワケ天君は夢から目覚め仰いました。

 

「人は神であり、神も人です。神という名は道を標し
誉め讃えられた人のことで、神は人なのです。
人は素直にホツマの教えに従っていると真の神となれるのです。」

そしてご神託が降り、ヤマトタケの名を熱田神と称え名が贈られました。
ミヤズ姫は斎宮(いつきのみや)と同じ位を授かり
神主も宮司と同等の位を授かりました。

ヤマトヲシロワケ天君は東路へ行けば
相模に着き、御饗が開かれました。
サクラネマシとホツミテシは拝み、泣きながら申し上げました。

「オトタチバナ姫が神上がりされ、もう二度と会うことができません。」
君も涙を流されました。

トラガシハが榊にヤマトタケの御姿を奉りました。
君はそれを見て
「まるでヤマトタケの生きていた時の姿に会っているようです。
一度見ただけでもよく似ています。」
その里を、目黒(はめくろ=そっくり)と名付け賜りました。

大山峰に社を建てて、その榊を祀りました。

御船は上総に向かい、阿呆の浜に到着し
ミサゴが餌を食べるのを見て民に尋ねました。

「あれは海蛤ウムキ(ハマグリ)といい民が食べています。
膾(なます)にするのも良いです。」と答えました。

すると、ムツカリが蒲襷(カマタスキ)をして

ウムキを採り、なますにして進み出たので
君は膳伴侍(かしはともへ=食事係)と名を賜りました。
ムツカリはオオクニの孫のイワカです。

 

それから君は鹿島神楽の獅子舞を見て
神楽の由来を尋ねると、トキヒコが答えました。

 

「これは昔、伊予に渡ったとき、獅子が人に食いつくのを見たサルタヒコがその獅子の動きを捕らえて舞を披露するとアマテル神が楽しまれ、獅子舞の神楽は鹿島宮で残り続けられました。

災いが起こらないことを願う、サルタヒコの名に相応しい伝承です。

 

君は十二月に伊勢の国に上り、妹のヤマト姫の磯の宮で過ごされ

五十四年九月三十日には、日代の宮に帰られました。

この時に三輪のオオタタネコが御代の文を編み、「神代のホツマの道」の
四十文を作成して大鹿島(アマノコヤネの末裔)に示すと
大鹿島も編纂した三笠文を示し、語り合い、新たに染めて二家より
献上しました。※三重県多気郡相可、相鹿上 (オオカガミ) 神社

 

『この文は、昔、大物主のクシミカタマが、詔を受けて作り、阿波宮(ことひら宮)に
保管した、代々の文です。

内容がまちまちだと、見る人も混乱します。百回、千回と読むことを試みると
遥かなる奥の神の道へ、まさに入ってゆけるでしょう。

 

時アスズ八百四十三年の秋の吉日に奉ります。

三輪の臣、スヱトシ(オオタタネコ)が畏れ謹んで染めます。』

 

この記事のライター紹介
伊勢乃志摩子
WEBデザイナー&カメラマン&ブロガー&ユーチューバー
住まい:三重県志摩市横山展望台から見える伊勢志摩国立公園の中
高校時代からの趣味は写真📷ウェブサイト制作歴 22年

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2000年 ウェブサイト制作事業スタート
2016年  S・O・L・A・R・I・S始動 
コマーシャルフォト・ポートレイト撮影
アルバム、フォトブック、パンフレット、名刺など印刷物制作、動画制作、SNS指導もやってます。
気まぐれに地域情報を投稿しています。
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